ご案内
医者は果敢な判断力を備えていなくてはなりませんが、それにもまして医者に必要なのは、見通しのつきにくい闇夜でも、激しい嵐の中でも患者とともにあるという姿勢でしょう。
豊かな医学知識をもっていても、あるいは豊かな知識をもっているだけに一層、医者は一人一人の患者の運命について迷い悩み、しばしば薄氷を踏む思いなのです。
ワラにもすがりたいのは、何も患者だけではありません。
名古屋のM・Kさんが「開業医です」と自己紹介した時、当時の駐日西ドイツ大使が「それは骨の折れる職業ですね」といったと書いておられます。
一日に何十人の外来患者をさばいたり、夜中にたたき起こされることだけが骨が折れることの中身ではなく、一人一人の患者に医者としての完全な責任をもって気をくばること自体、良心的な医者にとってはこの上なく緊張度の高い仕事であるというべきでしょう。
社会保険の医療報酬の点数の組み立てについて、薬だけでなく技術をもっと評価すべきであるという人が多いのですが、まじめな医者が本当に認めてもらいたいと考えているのは、むしろこのような心労についてではないでしょうか。
アメリカの統計を見ましても、医者は離婚率、自殺率が高く、アルコールや麻薬の中毒者も多いのです。
それを単純に医者という職業のストレスのせいにするわけにはもちろんいきませんが、あまり気楽な商売でないことは確かでしょう。
日本の医者の平均寿命が一般国民のそれよりも二年ほど短いという統計もあります。
もちろん鼻歌まじりで仕事を片づけ優雅な生活を送っている医者もいないことはないようですが、そういうのは本来の医者とはいえないのではないでしょうか。
私はこれからの医者はでき上がった患者ばかりを相手にせず、公衆衛生活動にも積極的に参加し、保健の専門家としての自覚をもたなくてはならないと考えますが、一人一人の患者の生命に責任をもつ臨床家の仕事は、まじめに取り組めば限りなく高い緊張を強いられ、とうてい片手間では片づかないことも確かなように思います。
「自分の治療した患者が全快して家族につれられて退院していくのを窓から見る時の「ああよかった」というあの喜びは、医者でないと味わえません」と、ある医者がE・Sさんにいったそうです。
患者の苦悩はいうまでもありませんが、医者も同じことで、絶えず不安におののきながら最善を尽くしているからこそ、この喜びがあるのでしょう。
今日の段階での医療は、倦むことのない科学的探求心と精一杯の人間的努力とを結びつけることによってようやく近づくことができる、大変困難な技術のシステムであると考えておかなくてはならないようです。
したがって患者が医者に感謝するとすれば、それは医者が万能であるからではなく、不確かさの中にあってできるだけのことをしてくれた、その誠意と努力に対してでなくてはならないでしょう。
主として現代医学の文脈の中で、今日の医療の確かさ、不確かさについて考えてき漢方復興ましたが、どちらかというとその限界の方を強調した形になりました。
それならそんな中途半端な西洋医学を見限って、東洋医学に期待した方がよかろうとお考えになるかも知れません。
実際、漢方薬や鍼治療は現在多数の患者に愛用されていて、現代医学が「もてあました」病気が東洋医学で治ったという話は決して珍しくありません。
明治政府がいわば強権をもって漢方医学を抑圧したのは重大な誤りであったと考えている人も少なくないようです。
当時の後藤新平(内務省衛生局長)の「東洋医学ナルモノハ生理、理化、解剖等医学枢要ノ部分二通ゼズ。学術上ノ要素欠点多ク国民ノ生命ヲ委託スペカラズト考フ」という国会答弁や、鴎外の「日本固有の医学なるもの」は「一箇の零点」であるに対し西洋医学は「欧米の医学にあらず積極的なる絶対的なる……国際的の医学なり。」
この百余年にして東洋医学への郷愁が大変強くなったように見えます。
素人だけでなく医者も東洋医学へ関心をもちはじめ、診療所の医者の三一%、病院の医者の二四%が漢方薬を使っているようです。
多くは西洋医学の薬を主とし漢方薬を従としていますが、感冒とか更年期障害とか胃炎とかぜんそくとか、あまり重篤でない病気に主に用いているようです。
鍼も一部の医者に用いられています。
一つには、感染症が西洋医学お得意の特定病因説の理論と方法のおかげでおおむね片づいて、あとに一次方程式をもってしてはたやすく解き難い、部品修理方式では間に合いかねる慢性病が残ったからでもありましょう。
東洋医学には、いろいろな特色があります。
まず強い古典尊重主義であることが研古典主義究主義、進歩主義の西洋医学と対照的です。
西洋医学は自然科学的医学であり、医者は科学者としての医師を自認していますが、科学主義は進歩主義を意味し、今日治せない病気も明日は治すことができるという確信に支えられていますから、ともすれば目の前の患者を研究のためのマテリアル(資料)、ないしケス(事例)と見なしがちです。
もちろん東洋医学にも研究があり、進歩がないわけではありませんから鴎外の断定は行き過ぎだとは考えられますが、自己完結的な古典的ワク組みに対する依存度が西洋医学に比してはるかに強いことは確かです。
西洋医学の世界では、たとえばアメリカの医科大学などで今でも、医者の心得についてのヒポクラテスの誓詞を誦しつづけているというふうに古典医学の「精神」が尊重されても、ヒポクラテスやガレノスやラケルススの病理学説や処方をそのまま今日の治療に持ち込もうとする人は、もはやいないにちがいありません。
陰陽や経絡についての古典の記載をゆるぎないものとして今日に生かしている東洋医学とは大違いです。
杉田玄白の『蘭学事始』に「官医岡田養仙老、藤本立泉老などはそのころまで七、八度ふ分け(解剖)したまいし由なれども千古の説と違いしゆえ毎度毎度疑惑して不審開けず、つらつら思えば華夷人物違いありやなど著述せられ……」という一節があります。
ルネッサンスヨーロッパでもヴェサリウスが人間の胸骨の数を七個であると記載したガレノスの誤りを指摘し五個であると主張した時、シルヴィウスはガレノスのような権威が間違うはずがないから古代ギリシャ人の胸骨は実際七個であったのだろうといって譲らなかったといいます。
ヴェサリウス以後の西洋医学は古典の権威を次と打ちくだいていきましたが、東洋医学といえども今日では人体解剖などについては古典を盲目的に受け入れているわけではありません。
しかし漢方薬の「証」(症候群)や鍼治療の「経穴」(ツボ)については二〇〇〇年前の古典がほぼそのまま生きています。
このため、西洋医学には新しがりの軽薄さが感ぜられるのに反し、東洋医学には風雪に耐えた伝統の重みが感ぜられ頼もしく思われるのでしょう。
東洋医学は本来、実験的研究に依存しない体系だといっていいでしょう。
でないことを「日本固有の医学」の最大の弱点と見なしたようです。
東洋医学は動物実験をほとんど顧みない点て「科学的」ではないかわりに、人間からの直接情報に全面的によりかかっている点では「人間的」な、あまりに「人間的」な医療の体系ですから、それだけ手触わりが暖かいのかも知れません。
したがって、東洋医学はきわめて現象論的な体系であるといっていいでし弁的に構成されていて、科学的・実証的ではありません。
見込み顧客が欲しているインプラント情報が検索キーワードによって類推できるからこそ、インプラントキーワード広告ではその欲している情報と相性の良いポイントを打ち出すことが重要になります。
インプラントに対する投資がこれまで以上に求められていると、競争力向上の鍵はインプラントが握ると考えている。
インプラントだけでなく現場のスタッフまでが、ため込んだインプラントのデータからさまざまな切り口で価値のある情報を見つけ出す方法とは。
